今回の「目薬αで殺菌します」は3冊のXシリーズを挟んでちょっと久しぶりのGシリーズ。キャラ読み派の方々にも、いくつかのサービスがありましたよ。
新刊が出ているのを発見すると、ほぼ迷わずに買う作家が何人かいる。森博嗣はその内の1人で、わずかに買っていないのはBlog本、庭園鉄道関係、絵本関係などの何冊かがある程度。
森博嗣のミステリは、その叙述トリックが好きなのだが、シリーズを通した叙述トリックもあったりするので、新刊を買っていると全読者参加の謎解き大会に参加している気分になるのも楽しい。Gシリーズで言えば、赤柳氏の正体が私にはまだ分からない。
ミステリという小説のジャンルには、作者から読者に対して出題されるパズルとしての側面がある。叙述トリックは、登場人物の同士の知恵比べに終始するその他のミステリよりも、この「作者からのパズル」という意味の純度が高いのが好きな理由かもしれない。
ミステリの物語構造を単純化するなら、「探偵」が「一般人や既存の捜査機関(警察など)」が解決できない(または存在にすら気づいていない)犯罪に対して、その謎や秘密を「非凡な才能で」解き明かす、というのが基本になる。
「探偵」のバリエーションは職業探偵の場合もあれば、はみ出し刑事だったり、美人の鑑識だったり、温泉好きの木の実ナナと裸が好きな古谷一行だったりする。「非凡な才能」も虫眼鏡(観察力)や灰色の脳細胞(洞察力)から始まり、家政婦という立場を悪用した立ち聞き・盗み見まで、多岐にわたるが、この「非凡な才能」の発現こそがミステリを読むカタルシスの根源であり、その意味ではスポーツ観戦でスーパープレイを見た時に興奮するのと同じ部分の脳細胞が興奮しているのではないか、というのは私の仮説だ。つまり、決して自分には出来ないことを確認しつつ、観客や読者は、その才能に対して喝采を贈る。
ところが、叙述トリックの場合は、登場人物間での知恵比べとは別のレイヤーで作者が読者を騙そうとするので、読了後に一本取られた感が強く残る。前提や思い込みを覆された時のポカーンな感じは、新しい事を知ったり、仕事や勉強や運動のツボをつかんだ時の感じに近い。新しいシナプス経路がモリモリと太く繋がっていくような快感がある。
さて、参考にもう一冊ご紹介。不可能を可能にする探偵の才能を、神からの贈り物だとすれば、そこに神の意志を見ることができる。ミステリの謎解き要素は、その不可能性のセッティングの装置である、といった趣旨の分析がミステリの深層―名探偵の思考・神学の思考でも触れられていたが、ちょっと冗長な感じで、ちゃんと理解できていないかも。